何のために勉強するのか?自分なりに考えをまとめてみた件
「勉強って何のためにするのだろうか?」
10代の頃、ずっと考えていた命題。
毎日、毎日、勉強しろと言われるけれど
大人になって就職したって、
ほとんどの人は微分積分なんて使わないだろう。
多分、こんな疑問を抱いていた人は自分だけではないだろう。
当時は大人から納得できる答えは返ってこなかった。
かくいう私も、
大学生の頃はバイトで中学生に勉強を教えていたが
この問いに答えることができなかった。
適当に濁して、問題用紙に強制的に向かわせた。
そんな私も、
社会で働き始めて6年目を迎え、
ようやくこの問いに
自分なりの答えを出せるようになったので、
ブログに残しておこうと思う。
勉強の意味を見つけられないでいる人が
この記事から少しでもヒントが得られれば幸いだ。
まず学校教育の意義を語る前に
社会人が成長していくために必要な要素が
何なのかを考える必要がある。
私が思うに
社会人が自立し自己成長していくためには
努力の「量」と「方向」が重要だと考える。
会社に入ったとしても、経営者になったとしても
これは共通だ。
よく大人は
「頑張れば必ず成功できる。」
「努力は裏切らない。」
と言うが、
これは全くの嘘だ。
死ぬほど頑張っても「方向」が間違っていれば
その努力は成果には結びつかない。
決して全てが水の泡になるということではなく、
自信や努力の「量」を鍛えることにはなるが
成果そのものには繋がらないと言うことだ。
言わずもがな、
社会に出ると基本的には成果を求められる。
頑張った事実ではなく、
原則として
生み出した成果に対して賃金が支払われるのだ。
これは決して努力の「量」が少なくても
その方向性だけあっていれば、楽して稼げると言うわけではない。
「量」と「方向」の双方を満足させないと
成果に結びつかないと言うことだ。
つまり、「方向」が正しくても
その絶対的な「量」が足りなければ結果はついてこない。
この努力の方向感覚というのは
仕事をする中で養われてくるものだと私は考えている。
自分の社会的価値を高めていくためには
ただ、がむしゃらに頑張るのではなく、
自分でかじ取りしながら頑張る必要があるのだ。
この
努力の
「量」と「方向」
を念頭に置いて、学校教育の意味を考えてみよう。
学校教育では基本的に科目が決まっており、
明確に点数として数値評価される。
テストの点数とは言わば「成果」である。
学校では基本的に論理的思考だとか空間認識だとか
読解力といった、問題毎にカテゴリーがあって、
「あなたは論理的思考の分野が苦手なので
この問題を頑張りましょう。」
といった形で、
得手不得手を可視化してレクチャーしてくれる。
つまり努力の方向性について指南してもらえる環境なのだ。
私の考える、
学校教育の意義とは、
努力の絶対量を鍛えることで、
努力できる人間を育てることなのだ。
勉強に限らず、
部活動でも何でも、努力した経験を積むことが大事なのだ。
もっというと「成果」である点数も気にする必要はない。
本質的に努力することを学べれば、
点数は取れなくても良いのである。
なぜかというと、点数は「成果」の指標であることは
間違いないが、ただの指標に過ぎないからだ。
努力の成果をテストの点数だけで表すことは不可能だし、
先生やテキストの指南が100%正しいわけでもない。
テストの点数を取るために勉強しているのではない。
あくまでも努力することの難しさや楽しさを学ぶことが目的なのだ。
大事なのは社会に出て、
十分な量の努力ができるかどうか。
学生のうちに努力の「量」を鍛え、
社会人になってからその方向感覚を養うことで、
世の中で活躍していける人材になることが最終目標なのである。
最後に、
漫才を科学したことで知られる島田紳助も
「紳竜の研究」というDVDで
「努力と才能が重なった時に成功がある。
漫才のセンスがなくても、
誰でも何かしらの才能があって、
努力できるやつは色んなことに挑戦すればいつか成功する」
と語っている。
努力の絶対量の重要性について非常に参考になるので
もし興味が湧けば一度目を通して見て欲しい。
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